Hisashi Nakao



野家啓一「人文学の使命ースローサイエンスの行方」

菅裕明他『研究する大学――何のための知識か』岩波書店,pp. 165-195.

*草稿なのでコメントあればお願い致します.

基本的には,人文学(と自然科学)が分離し,対立していく歴史を辿りながら,「人文学は,速度と効率を優先させる市場価値には還元できない別次元の価値が厳として存在することを、『スローサイエンス』の旗印のもとに積極的に言挙げすべきなのである」(pp. 186-187)と論じている.わりと共感できる部分は少なくないのだが,気になる点も多い.以下にそれを列挙する.

野家のイメージする人文学の狭さ

どう見ても野家のイメージする人文学は狭すぎるように思われる(あるいは,多様なものでない).たとえば,野家によれば,「人文学の研究成果が論文の改訂を経て書物としてまとめられるまでには、通常二、三年を要する」(p. 186)という.また,この論文の位置づけは,「人文学では論文は書物となる前段階、いわば『草稿』」であるという(p. 181).人文学の中にもそういう分野があるのかもしれないが,どう考えてもそうでない分野もあるだろう.たとえば生物学や心理学の哲学などが人文学に属すとすれば,当然多くの人が「いや論文が草稿って言われましても」と言われて終わるだろう.人文学は野家が思っているより多様なものなのである.また,この点も人文学が「スローサイエンス」であるべき理由の一つになっているようだが,そもそも人文学の認識自体が微妙である以上,これを根拠に人文学全体が「スローサイエンス」であるべきとは言えないだろう.

人文学はスローサイエンスであるべきか

野家の主張を読んでも,どうにも人文学が「スローサイエンス」であるべきだとは思えなかった.というのも,この主張を支える根拠がかなり弱いのである.根拠の一つとして,人文学では論文が書籍の草稿であるという点が挙げられていたが,これが人文学全般に当てはまらないことは既に指摘した.他には実のところ明確な理由が書かれていないように見えるのだが,たとえば歴史的な経緯がその理由の一つかもしれない.しかし,歴史がこうだったから今の人文学もこうあるべき,というスタイルの議論には注意が必要である.たとえば,パスカルとかの事例ももしかすると根拠の一つなのかもしれないが,時代が違いすぎるだろう.また,もしかすると187ページに書いてある「『人間性』の探究」であることが「スローサイエンス」であるべきことの理由なのかもしれない.だが,別に人間性を探究したって「スロー」である必要はないだろう.正直良く分からない.以上踏まえると,人文学が「スロー」である理由があまりにも弱過ぎて説得力に欠ける.

もちろん,共感できる部分は少なくないのだが...

もちろん,野家が指摘する人文学の役割については,おおむね共感できるものが多い.たとえば野家が人文学の使命として挙げる「第一に日常的思考において自明視されてきた事柄をも問い直す『思索力・洞察力』、第二には異質の他者の存在を受容し、理解し、共感しうる『想像力・感性』、そして第三に異質な声を聞き分けつつ他者に応答する『対話力』」(p. 187)については,現在でも有効に機能するかもしれない(とはいえ,それを示すためにはまた別の議論が必要だろうが).サイードの言葉を引用した「インサイダーでありかつアウトサイダーである」(p. 188)については,外から無責任な批判だけを繰り返せば事足りると考える自称科学哲学者に聞かせてやりたい言葉である.また,「一般教養(教養教育)においては,文科系の学生には科学技術リテラシーを,理工系の学生には社会文化リテラシーを身につけさせる必要がある」(p. 191)というのも頷ける.ただし,それを示すためにミルを持ってくるだけではほとんど説得力はない.現在の教育システムやその成果などに言及して議論を組み立てる必要があるだろう.このように,頷ける部分も多いのだが,そうした主張もまた,結局明確な根拠を欠いてしまっている.

おわりに

以上のように,人文学が「スローサイエンス」であるべきだという野家の主張は,どう見ても根拠が不十分である.実際,上でもごくごく簡単に触れたように,人文学だって分野やスタイル,目的に応じてスローであるべきかファストであるべきかは変わってくるだろう.もちろん,スローであるべきところはスローだって良い.しかし,人間性の探究,思索・洞察などが「スロー」であるべきかと言われると,別にファストでも出来ること,あるいは実際にファストで対応すべきことは多いんじゃないか,と思ってしまう.たとえば,社会が急激に変化する中で,ファストに行わなければならない洞察なんかはいくらでも思いつくだろう.以上,総じて色々と面白い箇所も少なくなかったが,もうちょっと,深い思索・洞察があっても良かったのではないだろうか,というのが率直な思いである.

*関係ないが,自然科学をファストフードにちなんでファストサイエンス,としてしまうのはさすがにどうかとも思うが...

Last modified: 07/18/2015